甲を鎧ふ #4『紺糸威胴丸具足』

2022.07.22 Category :

骨董品出張買取 織田信長 紺糸威胴丸具足
皆様こんにちは。スタッフのOです。
早くも第4回となった「甲を鎧ふ」シリーズ、
今回は織田信長の「紺糸威胴丸具足(こんいとおどしどうまるぐそく)」をご紹介します。
骨董品出張買取 織田信長 紺糸威胴丸具足 バック
織田信秀の三男だった信長は、元服した5年後に父が死去。
家督を継ぎ、一族間の激しい勢力争いも蹴散らし尾張を統一。
その後も「桶狭間の戦い」や「長篠の戦い」など数々の大戦を経験し、
怒涛の勢いで領地を拡大、朝廷から高級の官職へ任命されるなどします。
骨董品出張買取 織田信長 紺糸威胴丸具足 2
そんな信長が着用したと伝えられている「紺糸威胴丸具足」。
威(おどし)は札(さね)と呼ばれるパーツに紐を通してつなぎ、甲冑をつくりあげること。
「紺糸」は藍染によるもの。
藍の持つ殺菌・防虫効果による実用的な面と、
また古くはこの色が「褐色(かちいろ)」と呼ばれたことから験担ぎとしても好まれたそう。
骨董品出張買取 織田信長 紺糸威胴丸具足 札
また、織田信長といえば南蛮由来の品々を身に付けた
洋風の出で立ちをイメージされる方が多いかと思いますが、
史料から確認できる情報などから、現在ではこの具足のように
日本では一般的なデザインの甲冑を身につけて戦っていたというのが定説のようです。
骨董品出張買取 織田信長 紺糸威胴丸具足 木瓜紋
兜には織田家の家紋である木瓜紋と鍬形の前立が取り付けられています。
また、加藤一冑によるミニチュア作品には吹き返しにも木瓜紋の飾りが取り付けられています。
鉢は筋兜(すじかぶと)と呼ばれる形で、これは時代の変遷に伴って戦い方が変化したことにより
大型化した兜を軽量化するために工夫された形だそう。

実物の具足は、信長の次男を祖とする柏原織田家に伝来し、
信長を祀る京都の建勲神社(たけいさおじんじゃ)に奉納されたとのこと。
信長が命を落とした京都に具足が辿り着くのは、必然にも思えますね。

以上、簡単ながら「紺糸威胴丸具足」のご紹介でした。
次回は毛利元就をご紹介できればと思います。

▼参考リンク
徳川美術館『夏季特別展 信長・秀吉・家康 -それぞれの天下取り-』
京都国立博物館 コレクション 『紺色威胴丸 兜・大袖付』
建勲神社 ホームページ

織田信長
戦国時代から安土桃山時代の尾張(現在の愛知県)の武将。
1534年(陽暦)生まれ。
様々な戦を経験し勢力を強めるも、当時の家臣である明智光秀の謀反により天下統一に届くことなく一生を終える。
1582年、京都にて死去。

加藤一冑(2代目)
1933年生まれ、東京出身の甲冑師。
兜飾りを制作しつつ、実物の甲冑の模造や修理なども行っている。
国宝などに指定された甲冑の模造・修理で名を馳せた初代より技術を学び、1969年に「加藤一冑」を継承、現在に至る。
2009年に「東京都名誉都民」を受賞。

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