甲を鎧ふ #3『龍頭の兜』

2022.06.15 Category :

皆様こんにちは。スタッフのOです。
「甲を鎧ふ」シリーズ第3回、今回ご紹介するのは豊臣秀吉ゆかりの武将、浅野長政の「龍頭の兜(たつがしらのかぶと)」です。
骨董品出張買取 浅野長政 龍頭の兜
長政は実は、浅野家の実子ではなく、下級武士の家系である安井重継の子として生まれました。
母の兄である浅野長勝に男子がいなかったことから長勝の養女であるややと結婚、浅野家の跡取りとして迎えられることになります。

そして、この結婚が長政の人生における非常に大きな分岐点に。

ややには、同じく長勝の養女として迎えられていた姉妹がいました。
それが秀吉の妻として有名なねね(北政所)。
つまり、長政は秀吉と姻戚関係になったのです。

いわゆるコネがきっかけとなって出世街道を進み始めた長政ですが、武将として求められる能力も備えていました。
「賤ヶ岳の戦い」や「太閤検地」での活躍、さらには「五奉行」として豊臣政権における政治の要となるなど、特に行政面で手腕を発揮。
下級武士から一変し、甲斐(現在の山梨県)に城を持つ国持大名へと成長します。
骨董品出張買取 浅野長政 龍頭の兜2
そんな長政の兜のミニチュア作品として加藤一冑が制作したのが、今回ご紹介する「龍頭の兜」です。

実物の写真は残念ながら見つかりませんでしたが、明治30年に発行された『厳島名所しるべ』に「浅野家寄付 甲冑」としてよく似た兜が掲載されており、このように記されています。

冑大圓山三十八間星宿四方白兜鍪増田宗麿ノ作ニ■世ニ比類ナキ由折■二見タリ

※判読できなかった文字は■で表記しています。

これによると実物は「増田宗麻呂による作品で、38枚の鉄板(三十八間)を鋲(星宿)で繋いだ山形(大圓山)、前後左右には鍍金を施した板(四方白)のある兜」で、相当に素晴らしいようです。
図には浅野の家紋、丸に違い鷹の羽も見られます。

また、増田宗麻呂を調べたところ江戸時代に最も栄えた甲冑鍛冶屋の一つであり、現在も有名な明珍火箸・火箸風鈴に続く明珍鍛冶の先祖とされる増田宗徳の20代目の孫だそう。
ますます実物が気になります…。

ちなみに、2019年に広島県立美術館で開催された「入城400年記念 広島浅野家の至宝–よみがえる大名文化–」展にて似た兜が展示されていたようで、チラシに写真が掲載されています。
目録には

2 具足 紺糸威腹巻 浅野家十三代長訓所用 江戸時代 文久3年(1863)調製 広島 嚴島神社

と記載。
ぜひチラシを検索してみてくださいね。

▼参考リンク
国立国会図書館デジタルコレクション 『厳島名所しるべ』
(コマ番号24:見開きの左上)
新日本古典籍総合データベース 『明珍歴代族譜』
(5ページ目)
国文学研究資料館 『名甲図鑑』
(12コマ目)
『入城400年記念 広島浅野家の至宝–よみがえる大名文化–』展 目録
骨董品出張買取 浅野長政 龍頭の兜3
兜から今にも飛び立ちそうな龍の姿は、威風堂々。
鱗の一枚一枚までしっかりと形作られており、一冑の細やかな仕事が光ります。
前立を支える金具の緻密な装飾は、まさに兜「飾り」。
骨董品出張買取 浅野長政 龍頭の兜4
首を覆う錣(しころ)は金と朱色が色鮮やかなのもさることながら、紐を細やかに編み込んだ細工の整然さが見事です。

以上、簡単ながら「龍頭の兜」のご紹介でした。
次回は誰もが知る武将、織田信長をご紹介できればと思います。

浅野長政
安土桃山時代から江戸時代に活躍した尾張(現在の愛知県)の武将。
1547年(陽暦)生まれ。
豊臣秀吉に仕え、秀吉亡き後は徳川家康に仕える。
秀吉とは姻戚であり、五奉行として政治に携わる。
家康とは囲碁を通して親交があったとされ、「関ヶ原の戦い」の際は東軍として参戦した。
1611年、加藤清正と同年に江戸で死去。

加藤一冑(2代目)
1933年生まれ、東京出身の甲冑師。
兜飾りを制作しつつ、実物の甲冑の模造や修理なども行っている。
国宝などに指定された甲冑の模造・修理で名を馳せた初代より技術を学び、1969年に「加藤一冑」を継承、現在に至る。
2009年に「東京都名誉都民」を受賞。

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