皆様こんにちは。スタッフのOです。
計16点の鎧兜をご紹介する「甲を鎧ふ」シリーズ、第2回は前回取り上げた豊臣秀吉と縁深い武将の兜をご紹介いたします。
今回の兜は、「賤ヶ岳の七本槍」として名高い加藤清正の「長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)」です。
清正が生まれたのは、460年前の1562年。
豊臣秀吉と同じ尾張(現在の愛知県)の生まれであったことから、幼少より小姓(雑用係)として秀吉に仕えていました。
元服の際に「加藤虎之助清正」と改名した清正は、その勇ましい名前のごとく様々な戦で活躍し武功をあげてゆきます。
秀吉が天下人になるきっかけとなったともいえる「賤ヶ岳の戦い」では特に大きな働きを見せたことで、秀吉より多くの褒賞を受け取り「賤ヶ岳の七本槍」として広く名を知られるまでに。
大名として肥後(現在の熊本県)を治めるようになってからは治水や農業政策・熊本城の築城など、政治面でも活躍。
当時治めるのが難しいとされていた肥後を束ねあげ、後世において清正を祀るための「加藤神社」が創建されるほど、民衆からの支持が厚い武将だったそうです。
参考リンク:加藤神社
そんな清正が秀吉主導による朝鮮出兵の際、かぶっていたとされるのが今回ご紹介する「長烏帽子形兜」。
「烏帽子(えぼし)」とは、日本において古来から使用されてきた帽子のこと。
平安時代に成人男性の普段着として普及したものの、徐々に形式的なものへと変化していったことで室町時代末期には儀礼時以外ほとんど使われなくなったそうです。
そんな烏帽子をあえて模した理由はわかりませんが、当時の日本人男性の平均身長が155cmほどであったこと、実物の兜は高さが約75cmと大きいことから、当時の人に馴染みのあるデザインを取り入れつつ、戦場において自身をより強く、大きく見せようとしたのかもしれませんね。
実物は金属や漆で固められた紙でつくられているにも関わらず、まるで布製のように折れ曲がった形が印象的です。
加藤一冑によるミニチュア作品には、清正が家紋として用いていた「蛇目紋」と思われる丸い前立がついています。
もともとは武具の弓の弦を巻いて戦に携帯するための道具である弦巻に似ていることから「弦巻紋」と呼ばれ、武士としての力強さを表現する紋でしたが、
蛇の目にも似ていることから「蛇目紋」とも呼ばれ、当時蛇が神聖な生き物として考えられていたため護符としての意味も加わったと言われています。
実物の写真では前立はついていませんが、大きな兜を被ったり戦を重んずる家紋を用いていた加藤清正という人物の戦への強い意志が伝わってくるような作品ですね。
また、清正は熱心な日蓮宗の信者でもあったそうで、「兜の烏帽子部分に清正自身が書いた『南無妙法蓮華経』と書かれた紙を数百枚も貼り合わせた」という逸話が伝えられているんだとか。
参考リンク:Google Arts & Culture 徳川美術館
こちらの兜は徳川御三家のひとつである紀伊家(紀州徳川家)から尾張徳川家へと受け継がれ、現在では徳川美術館の所蔵品とのこと。
豊臣秀吉・徳川家の双方に仕えた加藤清正の兜が徳川家ゆかりの美術館へ…というのは、納得の来歴です。
参考リンク:徳川美術館『企画展示 天下統一-信長から家康へ』
以上、簡単ながら「長烏帽子形兜」のご紹介でした。
次回は清正と同じ時代に生き、秀吉とも関わりのあった武将をご紹介できればと思います。
加藤清正
安土桃山時代に活躍した尾張(現在の愛知県)出身の武将。
1562年7月25日(陽暦)生まれ。
長く豊臣秀吉に仕え、1583年に起きた「賤ヶ岳の戦い」での活躍により
肥後(現在の熊本県)を治める大名となる。
1611年、二条城にて徳川家康と豊臣秀頼の会見を見届けたのち、
帰国途中の船中で発病し、熊本城で逝去。
加藤一冑(2代目)
1933年生まれ、東京出身の甲冑師。
兜飾りを制作しつつ、実物の甲冑の模造や修理なども行っている。
国宝などに指定された甲冑の模造・修理で名を馳せた初代より技術を学び、
1969年に「加藤一冑」を継承、現在に至る。
2009年に「東京都名誉都民」を受賞。